世の中 安穏なれ

「世の中 安穏なれ」  呉市 西教寺  岩崎 正衛

「七十年 不戦の空の あげ雲雀(ひばり)」という句があります。昭和二十年の敗戦以来、わが日本は、七十年間、戦争をしていません。これほどの大国が、七十年間も、戦争をしなかった、ということは、世界史上でも例を見ません。まことに稀有なことであります。
のんびりと、平和な空に、あげ雲雀が舞っているという、まことに穏やかな風情であります。
ところが、プロシアの鉄血宰相ビスマルクは、「平和とは、次の戦争への、準備期間である」という、有名なセリフを吐いています。まこと、ドイツとフランスとは、1870(明治3)年の「普仏戦争」以来、1914(大正3)年からの「第一次世界大戦」、1939(昭和14)年からの「第二次世界大戦」へと、七十年間に、三度も大戦を経験しています。
凧を揚げて、雷が電気であることを証明したフランクリンが、有名な「よい戦争、わるい平和が、あったためしがない」とのせりふをものしました。 また、イギリスの作家ジョージ・ウォーエルは、戦争の目的は勝敗ではなく「戦時体制の維持である」と指摘しています。
そうですネ、はやばやと勝敗が決まって戦争が終わってしまっては困るのです。いまの日本は戦争こそしていませんが、いつ戦争がはじまってもよいように、(安倍さんor為政者)は準備おさおさおこたりないのです。
1950(昭和25)年はちょうど二十世紀の半ばであり、今度の戦争が終わっての五年目という節目でもあるので、世界中あげて平和的行事を行おうと、世界中が希望に胸をふくらませていたのです。
ところがどっこい、六月二十五日あのとんでもない朝鮮戦争が始まったのです。今日でも朝鮮は南北に分断され戦争状態なのです。
このように、人間はおたがい、欲に目がくらんだら何をしでかすか分かりません。他人ではない私を含めて「よろずのこと みなもってそらごとたわごと まことあることなきに ただ念仏 のみぞまことにておはします」とおっしゃった親鸞聖人のおことばはまことに身に染みてありがたくいただけるのですが、「ただ念仏のみぞまことにておはします」の「念仏」とは一体何でしょうか? ともすると「念仏」を知らなくても、この言葉を引用するだけで片付けてしまいがちです。しかしながら、この「念仏」は、阿弥陀様の御救いであると同時に、御救いを頂いた凡夫の勇気ある様々な報謝の行動が統一されたものであるべきです。逆を言えば、この統一された「まことの念仏」から色々な報謝の活動が多様化されてこそ「念仏のみぞまこと」と言えるのではないでしょうか。
また「念仏」は難行に対する易行であります。難行はできれば素晴らしいですが、なかなか誰にでもできるものではありません。そして出来ない時に色々な言い訳がたちやすいところが陥穽であります。一方念仏はとても易しいだけに、しない時に言い訳がたちにくいのであります。つまり、易しいことほどその人のしようとする意志が問われるのです。こう考えますと、私たちは色々なしがらみの中で「まことの念仏」を実践することがとても難しいのですが、自分の意志以外の色々な事柄の所為にして、自分にその意思が最も欠如していることを棚に上げてしまいがちであることが見えてまいります。
平和は非常にわかりにくく目に見えにくいものであり、平和のための努力もしにくいものですが、平和の中に潜んでいる戦争の芽を洞察して、念仏者として過去を反省しつつも過去に囚われず、目的論的に人類の幸福と世界の平和の為に、まことの念仏の道を共に歩める仲間づくりに努めたいと思います。
合掌


投稿日: 2020年12月29日 カテゴリー: 岩崎正衛|法話 タグ: