真実のみ法に帰依する生き方こそ

広島市東区 覚法寺   花田 哲朗

日の良し悪し語呂合わせ
「友引の日にお葬式をしたらまた人が亡くなりました。みんなが悪いということはしない方がよいのではないでしょうか」などと、日柄の良し悪しを言う人は案外多く、この場合は友引を「友を引く」と語呂を合わせ、この日に葬式をしてはいけないというようになったのです。
どうしてもこの日でないと都合が悪い時には、人形を棺の中に入れて「友を引っ張らせた」ことにするのですから、もともと大した威力はないのです。葬式に関する迷信はいろいろ有り、死んだ人が舞い戻ってたたってはいけないので、「あなたが還ってきても生活の場は在りませんよ」と、生前使った茶碗を割るとか、出棺の時に棺を三べん回して出す地方も有ったそうですが、これは死んだ人の目を回すためだそうです。
火葬から帰った時に「清め塩」を使うのは、死を汚れと視るところから出ているようですが、浄土真宗では死を汚れとはみません。この世から救われ浄土で仏とならせていただく身です。死を汚れとみるのは、死んだら遺体は腐敗をはじめ、異臭と共に黒い死相が広がります。古代これを「黒不浄」として、最も忌み嫌ったことにさかのぼるでしょう。
やがて四十九日(満中陰)になりますが「四十九日が三月越しになってはいけない」というのは「始終苦が身につく」という語呂合わせです。月の半ばを過ぎて亡くなられた方の場合は、みな三月越しということになります。言葉の遊びのようなものだという人も有りますが、たたり・怖れが絡んでくると自分は信じないが、人が嫌がることはしない方がよいと流されてしまうのではないでしょうか。
結婚式は大安の日に集中し、混雑しますが、仏滅の日は嫌われるようで「ゆっくりしていただけます」とホテルの人から聞いたことが有ります。

六  曜
先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の六つを六曜または六輝とも孔明六曜星ともいいます。中国で始まって、韓国や日本に伝わったものです。時代によって言い方や順番も変わってきたようですが、公認されたことはなく、官暦にはどの国でも掲載されたことはないそうです。
こんなご法事の相談電話もありました。
「××日の日曜日が都合が良かったのですが、暦を見ると友引になっているのです。友引の日にはできませんし・・・」
「友引の日のご法事がいけないとは、聞いた事が有りませんね」
「でも、これは仏教で言うのではないですか。仏滅というのもあるじゃないですか」
「それは六曜といいましてね。暦の日を六通りの吉凶に分け、日の良し悪しを言い出したのは中国で始まったのですが、仏教とは関係ないです。日本に入ってきたのは室町時代といわれますが、はやり出したのは江戸末期あたりからで友引・仏滅も元は共引・物滅と書いたそうですよ」
「そうですか?私らの方では、友引の日は葬式をしませんし火葬場も休みますから、仏教のしきたりかと思いましたよ。それで共引・物滅と書けば意味も変わるのですか?」
「そうですよ。共引は引き分けの意味だし、仏滅は釈尊が涅槃のさとりに入られたことをいいますから、物が滅びる物滅とは関係がありません」
六曜は諸葛孔明が攻守を占う兵法の言葉として始めたという説もある様ですが、当てにはなりません。しかし戦いや争いには大いに関わりの有る言葉です。
先勝 先にしかけた方が勝つ。
共引 勝負がつかず共に引く。
先負 先にしかけて負ける。
物滅 戦争は最大の資源消費・環境破壊
大安 戦争のない日は、大いに安らか。
赤口 負傷すれば身は鮮血で染まる。失血は命に関わる汚れで「赤不浄」という。
それぞれの日によって「○○はしてもよいが◇◇
をしてはならない」という忌みごとがあり例えば
赤口日は正午のみ吉。公事・訴訟・契約には凶の日」
といった具合です。あるいは二十八宿・十二支・九
星とかの吉凶相性までこだわる人もありますが、都
合の良い日は年に何日あるでしょう。

門徒物知らず
昔、日柄や語呂をことに気にしている男がいました。暦を見て「今日は野菜の種まきに都合のよい日」と準備をしていたら、近所の娘さんが頬を押さえてやって来ました。「どうしたの」と聞くと「歯が痛むの」と言います。「種をまいても葉が傷んではな」と気になりだしました。やがて治療を終えて帰ってきた娘さんに「どうだった」と聞くと「虫歯です。虫に歯を食われたんです」と言いました。虫に葉を食われるようではいけないと、男は仕事をやめました。
次の吉日、誰とも口をきかぬ決心をして作業を始めました。通りかかった知人が「おはよう」と声をかけました。「・・・」「一体どうしたのかね。私が挨拶しているのに、聞こえないのかい」と問われ「実はこうこう」と答えますと、「そんな根も葉もないことを」と、笑われてしまいました。根も葉も出ないようではもうだめと、その年は種まきができなかったとか、作り話かも知れませんが他愛ないお話です。
「門徒物知らず」と昔から言われます。本来は「真宗門徒は物忌みを知らない」と、他宗旨の人たちからいわれたのですが、今は門徒でありながら、自分の宗旨をあまりわきまえていない人をいう言葉になっていないでしょうか。昔の篤信な人たちには、どんな困難なことも逆縁として「ようこそ」と乗り越えて生きた姿勢があります。
二度とない人生を、わざわざ困難な狭い道にすることはありません。迷信に縛られない社会はどのようにすれば実現するのでしょうか。
一人一人が正しい宗教的な理性に目覚めるほかは有りません。「日々是れ好日」、昔から良い言葉も伝えられています。今日という日は私の人生の一番新しい日、旅立ちの日です。どんな旅でもその目的と帰すべき処が無かったら旅とは言えません。限りのある寿命をやり直すことは誰にもできませんが、見直して生きることができるのです。この人生の旅の目的、私たちは何に出会うために人として生まれてきたのでしょうか。この旅を終えてどこへ帰ろうとしているのでしょうか。罪深く悪重いこの身が、阿弥陀様の限りない智慧と慈悲のお心とはたらきに出逢いその世界お浄土に還らせていただく旅の一日が
今日という日でした。
浄土真宗の教章(私の歩む道)に示された「親鸞聖人の教えにみちびかれて、阿弥陀如来のみ心を聞き、念仏を称えつつ、つねにわが身をふりかえり、慚愧と歓喜のうちに、現世祈祷などにたよることなく御恩報謝の生活を送る。」真実のみ法・仏法に帰依する生き方を大切にいたしましょう。


投稿日: 2020年12月30日 カテゴリー: 法話 タグ: